きょうも何かを忘れたようだ

一瞬を記録する場所

空華に万行を修す~無常といふこと@禅フォーラム(横浜市鶴見区)

11月3日、鶴見大学会館(横浜市鶴見区)で開催された「第6回禅文化フォーラム」に参加した。
このフォーラムは、鶴見区内に多数ある禅寺などを地域資源として生かし、発信することで、多くの市民の幸福に寄与することを目的に2012年、総持寺鶴見大学などの関係者で設立された「シャル鶴見文化事業協議会」が主催している。

 

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同協議会は、JR鶴見駅ビル「シャル鶴見」を運営する株式会社横浜ステーシヨンビル(栗田勝社長、横浜市西区南幸1)が主体となって運営しており、このフォーラムは日本文化の魅力を発信する事業・活動「beyond2020プログラム」として認証されている。

プログラム内容は
1)基調講演
臨済宗 建長寺派 独園寺 藤尾聡允(ふじい・そういん)師 「海外からも注目を集める禅」


2)イス座禅
曹洞宗大本山 總持寺 布教今日株参禅室長 花和浩明(はなわ・こうめい)師

3)座談会
臨済宗建長寺派満願寺住職 永井宗直(ながい・そうちょく)師

曹洞宗大本山總持寺後堂 前川睦生(まえかわ・ぼくしょう)師

理に在宗圓覚寺派 浄智寺 住職 朝比奈恵温(あさひな・けいおん)師

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このフォーラムに参加したのは、前職の新聞社が後援しており、先輩からお誘いがあったからだ。
現在の仕事にも関係した話題でもあるが、「気づき」=マインドフルネス=というのは、今の私にとって、非常に重要な「生きる選択」に関わることでもあり、さまざまな迷いの中から「どのように自分を育てていこうか」と探索している最中でもあるので、個人として楽しみにもしていた。

プログラムそれぞれの場面で、それぞれのお坊さんの言葉がキラリと素敵だったのだが、座談会での永井さんの言葉がそのなかでもグッときた。
座禅の際の姿勢について「姿勢を正して、呼吸を整える」という話をしたのちに「ロダンの考える人、ってあるでしょ、彫刻の。あれ、あんまりいいこと思い浮かばないと思うんだよね」とバッサリ。

「無常ということ=すべて変化していくこと=が苦しいのですが」という会場からの質問について「松は古今の色無し/竹に上下の節無し」という言葉をまず引用して話し出す。


いつまでも変わらない緑をみせる常緑樹であり、長寿・繁栄の象徴する縁起物として扱われる「松」だが、実は「不変ではない。日々、変わっているのだ。今見ている色は、昔と変わらぬようでいて、昔から続いている色ではない」。
つまり「いまの自分がきのうの続きであるように人は錯覚している。けれども、瞬間瞬間、日々新たになっていることに着目せよ」ということ。


この質問の意図は「幸せが続かないこと、変化してしまうこと、今のよろこびが永遠ではないことが苦しい」ということだと類推する。

無常は苦しいことなのだろうか?
「変わっていくものをとどめることはできない」ということだけが、変わらぬ真実。
「仏教は変わることを恐れるなと説く」と永井さんは言う。

そして「常ならないことは、はかないこと。はかなさを悲しむとともに美しいと感じる感性を私たちは持っている。この感覚は素晴らしいのではないか」

変わりゆくことを受け入れ、はかなさを悲しむとともに、美しいと感じる…。

変わってしまったことはつらい。
幸せだった記憶があるほどに「そこに戻れないのか」と人は悶々とする。過去に執着する。
なぜ、人は思い通りにならない状況や人を悲しみ、恨むのか。
相手を思えず、自らの思いを強いるまでに執着するのか。
変わってしまうことが受け入れられない、許せない。
諦めることができない。
そうできたらいいのにと、願いながらもできない。

それ以外の選択ができない状況に自分で自分を追い込む。
ジタバタし、苦しみ続ける。醜い感情の発露に呆然としながら。
無常であることが無慈悲であるようにさえ思うのに。

けれども、悠然と、人の心情・執着になど一瞥することもなく、すべては変化し続けていく。

苦しむ、悲しむ、恨む…。
こんな強い感情が自らを圧倒していると、「はかないものを美しいと思う」という微細な感覚が麻痺してしまう。


けれど永井さんの投げかけに「そう、確かに一時しか生きられない花や虫、動物たちに、私は『だからこそ、愛おしい』という『はかなさゆえの美しさ』を感じる感性も持っていた」と、気づく。


続かなければ「意味がない」のか?
変わらないことが「価値があること」なのか?
変わってしまうことは「価値がないこと」「不幸でしかない」のか?


「それはあまりにも乱暴だろ」と気づく。

自分が無自覚に持ち、そして無自覚に自分を痛めつけていた価値観に揺さぶりをかけられる。


「変わってしまうことが苦しい」と感じる時、わたしは「変わらないことに価値がある/幸せだ」という、単一の視点に絡め取られている。

懸命に咲いて、散ってしまい、腐っていく花。

「美しく咲いた時にしか価値がない」という視点しか持てないのであれば、私たちはなんと世界を貧しくしか感覚できないのだろう。

 腐った花が豊かな土となり、また、新しい種を発芽させるエネルギーになっていく循環を私は知っているのに。


 自分のなかに、もっと微細にものごとをとらえる感覚・感性が育てば「続かなかったこと」「常ならぬこと」そのもののを「価値がない」ことではなく、美しさやありがたさ、豊かさそのものとしてとらえることもできたはずだ。

 そして、これからの起こることならば、なおさら「可能性はあるはず」だ。

そして「変わることは救い」でもあって、私はその恩恵にも浴してきた。

 


 そののちに永井さんは
水月道場に座し 空華(くうが)に万行を修す」という禅語を紹介してくれた。

 永井さんによると
水月道場とは、実態のない、思い通りにならない混沌としたこの世」のこと。
「空華」は仏教用語で「煩悩(ぼんのう)にとらわれた人が、本来実在しないものをあるかのように思ってそれにとらわれること。病みかすんだ目で虚空を見ると花があるように見えることにたとえたもの」(デジタル大辞泉)。

 永井さんは「答えの出ない、実態のないとらわれに向かい、人は”スッキリした答え”を求めてしまう。混沌の中に答えを出そうと苦しむ。”万行に修す”とは、そうした混沌に迷いながらも、目の前のことを全力でやれ、ということ」と、この言葉の解釈を披瀝した。

 そして、あふれ過ぎる情報に頼り、自分自身の頭で「本当に何をしたいのか、すべきなのか」を考えずに他=外側=に答えを探す・情報を取ろうとする姿勢が、焦りを生み出している現状にも言及していた。


 自分の魂が求めることを、いくらネットの海の中に探しても答えは出ない。
「誰かに評価されるから」「いま、話題になっているから」という視点で現実を創造していっても、自分の魂が曇るだけ。
 



ありがたい縁が運んできた、自分と対話するための有り難い時間。