好かれるために、わかったふりはしない。
大切なことは、たしかにみんな違う。
だからこそ言葉がある。
言葉だけでは尽くせぬリアルがあることも含んで
なおかつ
言葉を尽くそうとするところに、ひとは信を感じるんじゃないか?
感じた問いは発露する。
問いを
攻撃ととるのか
次を拓くための扉ととるのかで、
人の学びの深さは違ってくる。
拙かろうが、醜かろうが、装わないよ。
1人になろうと。
対話に嘘や忖度があると、魂は曇っていき、自分が嫌いな自分のできあがり。
そしてそれは
自分が関わる責任の放棄。
もう、そんなのはいやだよね。
嫌われるのが怖くないって、自由なこと。
自分らしく在って
挑んだことの
責任をとりながら
そこで出会う人と歩き出せばいいんじゃないかな。^_^
※これをフェイスブックに書いてから、しばらくして、「獣になれない私たち」
に、タイトルとしたセリフがでてきた。
人は、わざわざ自分から愛の名の下に、自分以外の者になろうとしてしまう。
それを徹底してすっ飛ばす自由な呉羽が言ったのが、タイトルにした言葉。
自分を粗末に扱ってごめんなさい。
カッコ悪いこと、美学を曲げたプロジェクトに自分のエネルギーを使ってしまった悔いは、学びとしよう。
https://realsound.jp/movie/2018/12/post-294972.html
引用================
「それでも人に支配される人生はごめんだ」となれば、何もかもを失う覚悟で、自分なりの正義を主張するしかない。きっと「自分を殺して、本当に死んでしまう」というのは、自分自身が自分で愛せなくなること。
自分以外の人生を歩めないのに、自分が自分を肯定できなければ、その人生は誰のものなのか。