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tvn/Netflix「二十五、二十一」 「永遠がない」痛みと奇跡を知る物語

ドラマ「二十五、二十一」のNetflix日韓同時配信が2022年4月2日夜に終了した。

(以下はネタバレがある感想となります)

 

あらすじはYoutuber・ゆうやんさんのこちらの動画がよくまとまっていたので、サクッとみていただければ!

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ゆうやんさんの紹介にあるように、このドラマは韓国が国家として経済破綻に追い込まれそうになった通貨危機の1990年代を舞台にしている。

内容は、国家代表を目指すキム・テリ演じる高校生フェンシング選手のナ・ヒドと、ナム・ジュヒョクが演じる大学中退→高卒放送記者のペク・イジン、2人を取り囲む同世代3人の合わせて5人を中心にした群像劇だ。

そして、その群像劇は、2022年のナ・ヒド(41歳)とちょっとこじれている娘のキム・ミンチェ(15歳)が「母(ナ・ヒド)の日記を読んでいる中で起きている」そういう構造になっている。

 

4月2日に最終回配信が終了したのに「いまだになぜ、自分はこんなに引きずっているのだろう」とずっと考えている。このドラマが自分にもたらしている長い長い余韻の正体を探りつつ、ドラマの感想を綴ってみる。

 

”永遠”をめぐる物語〜モチーフとなった楽曲「 25, 21 (스물다섯, 스물하나)」 

 

この不思議なタイトル「25、21」(ハングル発音は”スムル・タソ、スム(ル)ハナ”です。スムル=20、タソ=5、ハナ=1。)
モチーフとなった同名の原曲があり、この原曲はこのドラマでも大切なシーンに使われている。

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歌詞の中に

 

영원할 줄 알았던 스물다섯, 스물하나.
永遠だと思っていた 二十五歳、二十一歳

 

영원할 줄 알았던 지난날의 너와 나.
永遠だと思っていた 過ぎし日の君と僕

 

「永遠だと思っていた」というフレーズが繰り返し出てくる。

そして最終回の最後の最後にも「永遠だと言い張った」という言葉が出てくる。

この「永遠ではないこと」というコンセプトは、このドラマでとても重要だと思っている。

最終回を見終えて、このコンセプトについて感じたことを以下につらつらと書いてみようと思う。

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二十五、二十一



永遠などないのだ。


その喪失を、自分の体験として思い知り、痛み尽くす前提には
「永遠かもしれない」と信じた時間と存在への没入と愛が必要だ。

信じたいほどの価値を
切実な求愛を
「永遠であってほしい」時空に見出すからこそ、その喪失の傷は「私」に深く刻まれる。

つらい時を「一瞬忘れてもいい」と自分に許した夜の校庭の水遊び、ナ・ヒドたち5人だけの夏の「修学」旅行、21歳と25歳の新年を一緒に迎えて見た花火…。

 

どれもずっと続く・続いてほしかった美しい時間だった。

ある他者と、一体であるかのような奇跡でしかない時間をともにする。


それが2度と再現されない、取り返しのつかない体験であることを
私たちはその時空の中に在る時には、まったく気づかないのだ。
まるで魔法をかけられたように。


そして

一体であり、かけがえがないと思っていた人であるはずなのに
どこまでも自分を捨てられない自分が存在することに気づいた瞬間
永遠は色あせ
愛はそのエゴの前に潰えてしまう。

自分のエゴが愛を裏切る時、ひとは永遠の困難さを知って苦しむ。


「”自分だけは”ずっと続くと思っていた」というフィクションの破綻に打ちのめされて。

その人とずっといたいのに、その人といると苦しい自分がいる。
嫉妬や不信や罪悪感や自己嫌悪や依存…。
まるごと全体で向き合うからこそ、その人にすべてさらけ出し、ありのままでいることを許し合ってきたのに
ありのままで許されないリズムに片方が陥ったときに
私たちは試される。

わたしは、今も昔も変わらず「偉そう」だった。
その「偉そうなところ」をあなたはいいって言っていたじゃない。

最終回にナ・ヒドはペク・イジンに自分をぶつける。

「私が私らしい」ことが良かったといったじゃないかと。

そして

私(ナ・ヒド)が私でいられなくなるよりも

あなた(ペク・イジン)があなたらしくいられなくなるよりも

私が私であることを選んだ。

あなたがあなたらしい道を進んでいける道を選んだ。

その道は、互いに一人ひとりで進むしかない道だった。

永遠につづく関係がないことを思い知るシーンが、あの満開の桜の下で
ペク・イジンがナ・ヒドの靴紐を結び直すシーンなのだと思った。
一人で歩いていけるように。


 

この決断を、満開の桜の下、旅立ちのバス停前での抱擁においても揺るがせず、流されることのなかったナ・ヒドを賞賛する。

 

ペク・イジンが愛したナ・ヒドは
ロマンチックに流されて自分をなくすような人間ではないから。
自分に嘘をつくことは、ありのままの自分を愛して、信じてくれたペク・イジンとの時間そのものを、裏切ることだから。

 


そして

変わらない・変われないお互いを責め、
相手に変わってほしい/相手を変えたいと苦しめるのではなく

もう手放して
ありのままのそれぞれを
かつて「偉そうなところが好きだ」とあっけらかんと言い合えたその時空の有り難さと奇跡を
もう一度大切にする選択を2人はしたのだと思いたい。

「もう互いに苦しめるのはやめよう」と。


「永遠などない」
そのことをどんなふうに
どれくらいの傷によって知るのかは視聴者それぞれの体験に委ねられているとしても

困難な時代にあっても、永遠であってほしい時空ーナ・ヒドとペク・イジンにとっては「25,21」ーを、彼らは生き抜いた。
互いに支え合って。

その軌跡の「ナ・ヒドとペク・イジンにとっての価値」は「永続的に続く関係」でないからといって少しも損なわれないし、
あのトンネルの向こうで弾け、笑い、泣いた時間は、今も彼らの中にあり、その大切さ・価値は積み重なってなくなることはない。

10代・20代が遠くなった私がこのドラマを引きずる理由は、「永遠への挫折」があり「誰にも言えず、永続的な関わりにならなかったにもかかわらず、自分のLifeにとって大切にしまっている時空」が今も生き続けていることを喚起させてしまうドラマだったからではないか。



そしてその「永遠への挫折」で得た傷そのものが、人と人との関わりの奇跡・かけがえのなさを感じ取るアンテナになることを、改めて教えてくれたからではないか。

それぞれの「二十五、二十一」の時代とその風景の輝きと苦さを。




そしてこのドラマは、すべて「母であるナ・ヒド」の日記を、15歳の娘・キム・ミンチェが読むという仕掛けの中で展開していく。



「誰にも言えないけれども大切にしまっている時空」としての日記の中にいた18歳のナ・ヒドはミンチェに「読まれた」ことで、一人の葛藤し、輝いていた人間・ナ・ヒドになる。母親という像から解き放たれ、ミンチェと同世代の少女の情熱と葛藤と初恋との物語として、その言葉が娘に刻まれていく。

変化する時代、いつかは終わるLife、そのなかで翻弄されていても、愛がいつか終わるとしてもそれでも全身全霊を賭ける価値ある関わりは存在するし、「私たちの夏だった」と確かに言える記憶は、いつでも幸せを喚起してくれる。

このドラマの「エモさ」は見た人の喪失の記憶に深く関わっていて、その記憶が眠っている場所を柔らかくつつく。ロスの深さは、大切なことを教えてくれたシグナルだと思っている。

 

 

追記)
韓国のドラマは「時空のコントロール・構成」が秀逸で、その仕掛け自体に「1度しかないLife」に対する送り手のメッセージが込められているように思える。


1クール前の「その年、わたしたちは」でもドキュメンタリー撮影がドラマの大きな仕掛けとして機能していた。ただし、こちらは共同制作かつ「全世界公開・デジタル&SNS動画メディア」だった。

「二十五、二十一」についていえば「日記」という個人的かつ「公開されない・アナログオールドメディア」が使われた。(20年近い「すれ違い」がそのために生まれた)