小田原市長選投開票日を前に〜取り返しのつくことと・つかないこと〜
透明・参加・協働のないデジタル化・DXは寝言である
※SNSで政治の話をするな、とも言いますが本日だけは超・長文にて失礼いたします。
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小田原市長選が明日、終わる。
明日2024/05/19が投開票日だ。
私は選挙戦初日に小田原に行き、候補者2人の演説を聴いた。
(私は横浜市民なのだが、20世紀末期に小田原・足柄地域に3年半ほど暮らして以来、ずっと小田原という街のファンであり、まちづくりの面白さと価値を教えてくれたこの街に片思い的な愛着を持っている)
私は当時NPOの事務局長を務めていた加藤憲一さんと25年程前から友人であり、今回も市外で何もできないながら応援している。
そうはいっても「相手方の守屋・現市長がどんな主張をされるのか、一応、第一声を聞いてきた」というわけだ。
かつて勤務していた新聞社的に単純化してみれば「各党相乗りでガッチリ組織固めをしている現職と組織的な支援ではなく、草の根的な前職の一騎打ち」的な構図でもある。
加藤さん・守屋さんの第一声を聞いて、気になったポイントがあったので記録しておきたい。
それはリーダーに誰を選ぶかにおいて「取り返しのつくこと」と「取り返しがつかないこと」が何か、ということだ。
社会状況の変化・国のその時々の政策に、地方自治は常に影響を受ける。
SDGs、スマートシティ、ウェルビーイング、DX、デジタル田園都市…。パッケージはその時々に変わっていく。
この変数の中で働く政治家がどんな「ぶれない軸」を持っているかを、有権者は見ぬかなければならない。
私はそのぶれない軸をわかりやすく表現しているのが(今でも)「オープンガバメントの3原則」だと考えている。
オープンガバメントの3原則とは…
- 政府・政策・情報の透明性(transparency)ー政府・自治体の政策形成過程・情報が公開されていること。説明責任を政府・自治体が果たすこと。行政が保有する情報に市民がアクセスし、確認できること
- 市民参加(participation)ー様々な方法で政策形成過程や政策実施過程に市民や民間組織が発言の機会を得て、よりよい地域づくりに参加できること
- 政府内および官民の協働(collaboration)ー地域の課題解決等に民間が積極的に関与し主体的に動いていくこと
これは米国のオバマ元大統領が2009年に表明したものだ。
そして1の透明性がすべての基本であり、その透明性を土台として2と3が展開する。
先行き不透明な時代、国の政策が「あれもこれも」と試行錯誤しながら展開されることはある意味仕方がない。ただし、先行きが不透明であり「これまでできていたこと」が「これからできなくなる」状況は、地方こそ先に直面している。
その際に地方自治体のリーダーに求められることはまず「透明性」だろう。透明性の確保をシステム化すること、と言い換えてもいい。
どんなビジョンを持ち、なんのために、なぜその選択をするのか?
支持されにくい苦しい決断も、「誠意を持って情報を公開し、説明責任を果たす」という基本動作・アイデンティティを持っているか否かは、これからの時代のリーダーにまず求められることだ。
このアイデンティティの有無が「取り返しのつくこと」「取り返しのつかないこと」の境目だ。
その「透明性の確保」があって、初めて市民は正当なフィードバックを返すことができる。
初めて「参加」が担保される。
「今よりよくする」ための正当な提案や質問を、リーダーに投げかけることができる。
そもそも「透明性」がないまちに、よりよくするための「参加」や課題解決のための「対話」など、有り得ない。持っている情報が非対称過ぎるから「お上の言うことを聞く」という構造から抜けることができない。
ゼロにかけ算をしても答えはゼロにしかならない。
(河野デジタル大臣が進めている政策、私はマイナンバー導入積極派なので良い部分もあると考えている)
ただし。
自民党のカネの問題処理に見えるように、最も重要な「透明性」は全くない。最大の欠点だ。
河野さん、というか現政府がやっていることはあくまで「How」の部分であり、オープンガバメントの哲学はどこか置いてきぼりなのだ。
情報公開法も公文書管理の法律整備も見向きもされないまま。
コンビニで住民票や戸籍謄本が取れます。
人流がセンサーによって可視化できます。
印鑑を押さなくてよくなりました。
申し訳ないけれど、守屋さんが選挙戦初日に成果として挙げているこれらのデジタル施策は、国が進めている政策をそのまま受け入れているだけ、と受け止めた。
横浜で(門前の小僧習わぬ経を読む的に)オープンガバメント・オープンデータが進捗していく状況をこの10年、横目で眺めてきたに過ぎない私だが、それはその自治体「独自の成果」でとは言えないように思う。(もちろん現場で業務を変えるデザインをした行政職員の方々の苦労はあるにしても。)
国がやってくださいというパッケージを受け入れて展開した、ということに過ぎない。
民(自治会・NPO・企業等)とコラボレーションし、アイデアを出し合い、対話を重ねて知恵を結集しなければならない時代のリーダーに必要な資質は「透明性」「説明責任」への感度だ。
その感覚の欠如は「取り返しがつかない」し、付け焼き刃のように後から付け足すことはまず困難だ。
政策の充実は、外部人材も含めて「調達」できる。
経済分野でもデジタル分野でも福祉分野でも。いくらでもつながって招くことはできる。
対話とフィードバックの回路があれば「とりかえしがつく」。
オーブンガバメント3原則の逆張り的資質があるリーダーは「取り返しがつかない」
- 不透明性・説明責任の放棄
- 一部の企業・団体・人材の登用
- (不信による)進まない官民連携
このことを、愛すべき小田原のみなさんに伝えておきたいし、早晩、やってくる横浜のリーダー選択の際も私自身はこの視点を大切にしたいと思っている。
よい「投票」となりますように、祈っています。
※追記
1)守屋さんが観光客が激増、ということを「成果」としていましたが、これは単に「コロナ禍」が終息したという「社会の変化」がもたらした結果であって、鎌倉も浅草もひとしくインバウンドは激増しています。
全国どこの自治体であってもコロナ禍は等しく終息し、インバウンドは増えています。特定の首長の特定の施策が実を結んだということまでは言えないでしょう。
2)移住者2000人、という「成果」も、コロナ禍で会社の制度や習慣の変化がまず先にあったことをお忘れなく。リモート会議の普及、在宅勤務制度の充実などがあってターミナル駅の小田原が候補に挙がるという順番でしょう。その時に、小田原には旧三福不動産さんのように非常に小田原の魅力を深く理解している民間企業が10年程前から地道にビジネスをしていた「力」の方がずっと大きいように思います。
最後に。
最初に申し上げたように、私と加藤さんは友人でもあるのでもちろんバイアスはバリバリにかかっています。長所も多いですが、もちろん欠点もあるかと思います。
ただ、一つだけすごいな、と思うことは
加藤さんは
小田原の一次産業を仕事としてほぼすべて経験していること、非営利団体事務局長として市民と行政の協働の現場に関わってきていること、酒匂川流域を源流まで知り尽くしていることです。(確かワンゲル部)
多様な仕事と立場を知り、風土を知っているということはこれからの時代、強みです。ユニークネス・その街にしかない強みを土台に、ビジネスを組み立て、そのビジネスを支える人がHappyに暮らす街を、透明性・参加・協働をOSとしてつくっていく。
小田原の皆様「取り返しがつく」、そんな選択をしてください。
ドラマ「華政」(ファジョン)〜岩と卵の話
最近はU-nextの少し前のドラマを見るのにハマっています。この2カ月ほどをかけて見ていたのは2015年の韓国の歴史ドラマ「華政」(ファジョン) でした。
BS日テレのドラマ概要では以下のように内容を説明しています。
”16世紀朝鮮王朝時代、第14代王・宣祖の娘で唯一の嫡女であった貞明公主は、宣祖の死後、室の王子・光海君が即位するや都を追われ、賎民の暮らしを強いられる。生き延びるために死人として偽り、過酷な運命を辿らなければならなかった。
後に腐敗した第16代王・仁祖に最後まで屈しなかった鉄の王女、貞明公主の人生を描く”
日本の大河ドラマと同じくらいの分量で、65回と長いです。
主な出演者が
- チャ・スンウォン(私たちのブルース)
- ソ・ガンジュン(天気がよければ会いにゆきます)
だったことで興味を持ってチラ見したのですが、序盤に出演した大好きな俳優、イ・ソンミン(ミセン/記憶/財閥家の末息子)
の名演と脚本に引き込まれて65回の長丁場を乗り切りました。
韓国の時代劇なので、身分の差・しきたりなどの表現があるのですが、脚本は「権力は何のためにあるのか」という大きな問いを視聴者に考えさせるエピソードになっています。その問いかけがあるので、時代劇を見ているはずなのに、現代の自分たちの目の前にある政治の姿や権力、自分たち(国民)の持つ力について考えさせてくれるのです。
卵はいつか鳥になる
このドラマをみていて思い出していた映画がありました。「弁護人」(2014年/ソン・ガンホ/イム・シワン)という映画です。
韓国では「岩をうがつ卵(卵で岩を打つ)」のたとえにあるように、通常「脆弱な存在が大きな権力に刃向かうことはムダで無謀」とされています。
この映画の中で、1980年代の民主化運動で政府に拘留された青年(イム・シワン)が「岩は固くても死んでいるけど、卵は生きている。卵はいつか鳥になって、岩を越えていくんです」と、弁護人のソンガンホに話すのですが、なぜか時代も状況も違うこの時代劇ドラマを見ながら、思い出されて仕方ありませんでした。(ちなみに、この「弁護人」で弁護士ソン・ガンホが法廷で叫ぶメッセージが、この「華政」の中心メッセージと同じだと思いました)
ドラマの中でも「民のための権力」「深い闇、長く続くような極寒の中にあっても志を折らずに諦めるな」ということが、再三、リフレインされているからかもしれません。
そして、単純な善悪/敵味方の戦い・復讐ものになっていない点が秀逸な脚本につながっているように思いました。
復讐するべき敵である人なのに、その人なりの大義を理解していくプロセス、対話が丁寧に描かれているので「人間は変化うるし、理解し会える存在である」というメッセージを、脚本家は信じてこの作品を書いていることが伝わってきます。
長編ですが、飽きずに見られるドラマでした。Huluでも配信されているようです。
====イ・ソンミンさん演じる朝廷の官僚・漢陰のセリフ
「この世で善を貫くのは困難かもしれない。残酷なまでの冬の寒さがどんなに長く続こうとも、土の下では輝く新芽が必ず育っているように、おまえたちは決してこの世界で負けてはならない。今日の不義に屈することなく、明日の新たな世を信じろ。
”人の意志は天の定めを変える”と、イ・ジハムが言っていました私は信じているのです、人の力を…」
「政治は、神が与えたすべての苦痛に対する、人間の絶え間ない答え」この言葉が問いかけること
「サバイバー〜60日間の大統領」(2019年)
今回完走したドラマは、アメリカの「サバイバー〜宿命の大統領」の韓国版リメイク「サバイバー〜60日間の大統領」。
アメリカ版のファンでシリーズすべてを見ていたのですが、韓国リメイク版はコンパクトながら「民主主義への信頼を失わない」という覚悟にも似た強いメッセージを込めた佳作に仕上がっていました。
「北朝鮮に融和的な大統領が、国会議事堂爆破テロでほとんどの国会議員とともに謀殺される」というところから始まり、解任寸前の環境庁長官が代行に就任する状況設定はほぼ同じ。
ただ、その後の脱北者差別・韓国軍への支配を強めたい在韓米軍の思惑・軍事クーデター計画・大統領代行暗殺未遂などをはさみながら、ジェットコースターのように「テロ計画者」に近づいていくストーリーは、長編映画を見ている濃密さでした。
さまざまなエピソードを通じて表現されていたのは、国民に幻滅し、民主主義を疑い、暴力や恐怖による政治(支配)に誘われてしまった者に、どのように向かい合っていくのかという問い。
大統領代行を演じたチ・ジニは、学者あがりで権謀術数などにおよそ縁のない「良い人」として、ねじれている政治の世界の力学にほんろうされながらも信念を曲げない姿を熱演。ドラマの中にしか存在しないファンタジーのような人なのかもしれないが、だからこそ役者の身体をもって描かれることが必要だったように思う。

そして、決してイケメンではないが、味のある若い秘書官役を演じたソン・ソックが非常に良かった。熱情に突き動かされるところもあれば、抜けたユーモアとかわいらしさがある。
日本でいえば柄本佑系ですね。

以下ほんの少しネタバレです。
最終回は、今の日本に生きる自分にも、日本の政治にとっても示唆ある言葉がてんこ盛りでしただが、そのうち2つだけ。
「試行錯誤はしますが、その過程を含めて歴史ではないでしょうか」
「政治は、神が与えたすべての苦痛に対する、人間の絶え間ない答えです」
こういう言葉が連続ドラマとして放送されるクオリティが本当にうらやましい。そしてこれを「面白い・すごい」と評価する人たちが日本にもいるんですよね。
このドラマを見て思い出したこと
ソン・ガンホとイム・シワンが共演した映画「弁護人」(盧武鉉大統領の弁護士時代がモデル)に、「岩は固くて死んでいるけど、卵は生きている。卵はいつか鳥になって、岩を越えていくのです」というセリフがありました。
ソン・ガンホ主演『弁護人』11/12より新宿シネマカリテほか全国順次公開
これは1930年代・日韓併合時代の京城(現ソウル)を舞台にしたドラマ「カクシタル」にも同じセリフがあったと記憶しています。独立を訴える朝鮮の女性が拷問を受けながらも、日本人警察官にこの言葉を放つのです。
岩のように強固な権力に比べれば、1人1人の存在や抵抗は卵のように壊れやすい。
ただ、あきらめずに試行錯誤を続けるしかない。その先にしか鳥は飛ばず、民主主義は実現できない。
こういう粘り強い強靱さを、変奏曲のように何度もリマインドする厚みが韓国のエンターテイメントにはありますね。
日本でも衆院選が今年あります。
「民主主義を諦めない」ことをインプットするには、お勧めのドラマです。
本は社会を変えることはできない/それでも本のような人になれ/ドラマ「ロマンスは別冊付録」が描く、言葉への愛
Netflixで視聴した「 #ロマンスは別冊付録 」は、タイトルが激甘で一瞬引きますが、出版社が舞台の「言葉の力」とその器である「本」と本づくりについてのドラマ

夏目漱石による「月が綺麗ですね」のエピソードも重要なモチーフになっています。
とにかくたくさんの詩が出てくる物語なのがまずよかった。
※追記
こちらのブログで紹介されているように、このドラマ制作の直前にジョンソクさんは詩集をつくるという経験をしている。
今回の詩集のために1年余りの時間の間秘密裏に準備をしてきたと聞きました。 いよいよ来週に本が世の中に出てくるが、感想はどうですか?
私のSNSにも所感を上げたが、このように本一冊が出てくるまで長い間の悩みと煩悩が必要だという事実を初めて悟りました。 このような過程を乗り越える著者の偉大さを感じたし、見えない所で本当に多くの方の努力が共にすることをもう一度知るようになりましたよ。 今回のプロジェクトを無事に完成することができるように助けてくれたナ・テジュ先生に最も感謝した心が大きいです。
https://ameblo.jp/ljs8/entry-12348008599.html
いち俳優の意見が、ドラマ制作に生かされるかどうかは定かではない。
けれど、真偽もわからない情報があふれかえる現状のなかで「詩の力を信じている役者」が、エンターテインメントとして「良書」への信頼とそれをつくろうとする人の情熱を主題にしたドラマに魂を吹き込んだであろうことは想像に難くない。
出版社を舞台に、言葉の力を信じ、その仕事の厳しさと尊さをエンタメ作品として昇華する脚本力と俳優陣の演技力に脱帽。
また、認知症の受容やブランクが空いてしまった専業主婦→シングルマザーの再就職の困難さ、売れない作家の苦しみ、使えない無鉄砲若手社員の成長など、サブテーマも充実。本のマーケティングなどの動きも面白く、それぞれ無理なくストーリーに取り入れられている。
このドラマに主演している俳優のイ・ジョンソク さんは、日本にはいないタイプのカッコよさ。
日本だと、佐藤健さんとちょうど同世代。
若手ですがその童顔とイケメンぶりに騙されてはいけない演技巧者だ。
(彼は脚本の選球眼に優れていて、ドラマにほとんどハズレがない)
子犬のようなビジュアルを利用して、硬派なメッセージを甘く伝える自分の役目を心得ている。
今回はネット時代に「本が売れなくなったこと」に直面した出版人の「良書を作り続ける価値とその仕事へのプライド」を、イチャコラシーンのコーティングの下に埋め込んでいます。
彼は、彼のビジュアルや甘いシーン目当てでドラマを見たいという人に、テーマの重要さを密やかに伝える「役者」に徹している。
犯罪被害者と冤罪、報道被害、ネット時代の創作者の苦悩など、彼の主演作は甘いレンアイシーンやファンタジーを外すと、社会が抱えている問題とその乗り越えをコンセプトにして、きっちり描いているドラマが多い。
この作品もタイトルが激甘で視聴に躊躇したのだが、人生と本についてゆっくりと考えたくなるドラマだった。
とりあえずエピソード8までは頑張って見てもらいたい。
私はこのエピソードと、最終回の老作家のモノローグを何度も見返している。
「自分以外の何者にもなれない」
好かれるために、わかったふりはしない。
大切なことは、たしかにみんな違う。
だからこそ言葉がある。
言葉だけでは尽くせぬリアルがあることも含んで
なおかつ
言葉を尽くそうとするところに、ひとは信を感じるんじゃないか?
感じた問いは発露する。
問いを
攻撃ととるのか
次を拓くための扉ととるのかで、
人の学びの深さは違ってくる。
拙かろうが、醜かろうが、装わないよ。
1人になろうと。
対話に嘘や忖度があると、魂は曇っていき、自分が嫌いな自分のできあがり。
そしてそれは
自分が関わる責任の放棄。
もう、そんなのはいやだよね。
嫌われるのが怖くないって、自由なこと。
自分らしく在って
挑んだことの
責任をとりながら
そこで出会う人と歩き出せばいいんじゃないかな。^_^
※これをフェイスブックに書いてから、しばらくして、「獣になれない私たち」
に、タイトルとしたセリフがでてきた。
人は、わざわざ自分から愛の名の下に、自分以外の者になろうとしてしまう。
それを徹底してすっ飛ばす自由な呉羽が言ったのが、タイトルにした言葉。
自分を粗末に扱ってごめんなさい。
カッコ悪いこと、美学を曲げたプロジェクトに自分のエネルギーを使ってしまった悔いは、学びとしよう。
https://realsound.jp/movie/2018/12/post-294972.html
引用================
「それでも人に支配される人生はごめんだ」となれば、何もかもを失う覚悟で、自分なりの正義を主張するしかない。きっと「自分を殺して、本当に死んでしまう」というのは、自分自身が自分で愛せなくなること。
自分以外の人生を歩めないのに、自分が自分を肯定できなければ、その人生は誰のものなのか。
空華に万行を修す~無常といふこと@禅フォーラム(横浜市鶴見区)
11月3日、鶴見大学会館(横浜市鶴見区)で開催された「第6回禅文化フォーラム」に参加した。
このフォーラムは、鶴見区内に多数ある禅寺などを地域資源として生かし、発信することで、多くの市民の幸福に寄与することを目的に2012年、総持寺・鶴見大学などの関係者で設立された「シャル鶴見文化事業協議会」が主催している。

同協議会は、JR鶴見駅ビル「シャル鶴見」を運営する株式会社横浜ステーシヨンビル(栗田勝社長、横浜市西区南幸1)が主体となって運営しており、このフォーラムは日本文化の魅力を発信する事業・活動「beyond2020プログラム」として認証されている。
プログラム内容は
1)基調講演
臨済宗 建長寺派 独園寺 藤尾聡允(ふじい・そういん)師 「海外からも注目を集める禅」
2)イス座禅
曹洞宗大本山 總持寺 布教今日株参禅室長 花和浩明(はなわ・こうめい)師
3)座談会
臨済宗建長寺派満願寺住職 永井宗直(ながい・そうちょく)師
理に在宗圓覚寺派 浄智寺 住職 朝比奈恵温(あさひな・けいおん)師

このフォーラムに参加したのは、前職の新聞社が後援しており、先輩からお誘いがあったからだ。
現在の仕事にも関係した話題でもあるが、「気づき」=マインドフルネス=というのは、今の私にとって、非常に重要な「生きる選択」に関わることでもあり、さまざまな迷いの中から「どのように自分を育てていこうか」と探索している最中でもあるので、個人として楽しみにもしていた。
プログラムそれぞれの場面で、それぞれのお坊さんの言葉がキラリと素敵だったのだが、座談会での永井さんの言葉がそのなかでもグッときた。
座禅の際の姿勢について「姿勢を正して、呼吸を整える」という話をしたのちに「ロダンの考える人、ってあるでしょ、彫刻の。あれ、あんまりいいこと思い浮かばないと思うんだよね」とバッサリ。
「無常ということ=すべて変化していくこと=が苦しいのですが」という会場からの質問について「松は古今の色無し/竹に上下の節無し」という言葉をまず引用して話し出す。
いつまでも変わらない緑をみせる常緑樹であり、長寿・繁栄の象徴する縁起物として扱われる「松」だが、実は「不変ではない。日々、変わっているのだ。今見ている色は、昔と変わらぬようでいて、昔から続いている色ではない」。
つまり「いまの自分がきのうの続きであるように人は錯覚している。けれども、瞬間瞬間、日々新たになっていることに着目せよ」ということ。
この質問の意図は「幸せが続かないこと、変化してしまうこと、今のよろこびが永遠ではないことが苦しい」ということだと類推する。
無常は苦しいことなのだろうか?
「変わっていくものをとどめることはできない」ということだけが、変わらぬ真実。
「仏教は変わることを恐れるなと説く」と永井さんは言う。
そして「常ならないことは、はかないこと。はかなさを悲しむとともに美しいと感じる感性を私たちは持っている。この感覚は素晴らしいのではないか」
変わりゆくことを受け入れ、はかなさを悲しむとともに、美しいと感じる…。
変わってしまったことはつらい。
幸せだった記憶があるほどに「そこに戻れないのか」と人は悶々とする。過去に執着する。
なぜ、人は思い通りにならない状況や人を悲しみ、恨むのか。
相手を思えず、自らの思いを強いるまでに執着するのか。
変わってしまうことが受け入れられない、許せない。
諦めることができない。
そうできたらいいのにと、願いながらもできない。
それ以外の選択ができない状況に自分で自分を追い込む。
ジタバタし、苦しみ続ける。醜い感情の発露に呆然としながら。
無常であることが無慈悲であるようにさえ思うのに。
けれども、悠然と、人の心情・執着になど一瞥することもなく、すべては変化し続けていく。
苦しむ、悲しむ、恨む…。
こんな強い感情が自らを圧倒していると、「はかないものを美しいと思う」という微細な感覚が麻痺してしまう。
けれど永井さんの投げかけに「そう、確かに一時しか生きられない花や虫、動物たちに、私は『だからこそ、愛おしい』という『はかなさゆえの美しさ』を感じる感性も持っていた」と、気づく。
続かなければ「意味がない」のか?
変わらないことが「価値があること」なのか?
変わってしまうことは「価値がないこと」「不幸でしかない」のか?
「それはあまりにも乱暴だろ」と気づく。
自分が無自覚に持ち、そして無自覚に自分を痛めつけていた価値観に揺さぶりをかけられる。
「変わってしまうことが苦しい」と感じる時、わたしは「変わらないことに価値がある/幸せだ」という、単一の視点に絡め取られている。
懸命に咲いて、散ってしまい、腐っていく花。
「美しく咲いた時にしか価値がない」という視点しか持てないのであれば、私たちはなんと世界を貧しくしか感覚できないのだろう。
腐った花が豊かな土となり、また、新しい種を発芽させるエネルギーになっていく循環を私は知っているのに。
自分のなかに、もっと微細にものごとをとらえる感覚・感性が育てば「続かなかったこと」「常ならぬこと」そのもののを「価値がない」ことではなく、美しさやありがたさ、豊かさそのものとしてとらえることもできたはずだ。
そして、これからの起こることならば、なおさら「可能性はあるはず」だ。
そして「変わることは救い」でもあって、私はその恩恵にも浴してきた。
そののちに永井さんは
「水月道場に座し 空華(くうが)に万行を修す」という禅語を紹介してくれた。
永井さんによると
「水月道場とは、実態のない、思い通りにならない混沌としたこの世」のこと。
「空華」は仏教用語で「煩悩(ぼんのう)にとらわれた人が、本来実在しないものをあるかのように思ってそれにとらわれること。病みかすんだ目で虚空を見ると花があるように見えることにたとえたもの」(デジタル大辞泉)。
永井さんは「答えの出ない、実態のないとらわれに向かい、人は”スッキリした答え”を求めてしまう。混沌の中に答えを出そうと苦しむ。”万行に修す”とは、そうした混沌に迷いながらも、目の前のことを全力でやれ、ということ」と、この言葉の解釈を披瀝した。
そして、あふれ過ぎる情報に頼り、自分自身の頭で「本当に何をしたいのか、すべきなのか」を考えずに他=外側=に答えを探す・情報を取ろうとする姿勢が、焦りを生み出している現状にも言及していた。
自分の魂が求めることを、いくらネットの海の中に探しても答えは出ない。
「誰かに評価されるから」「いま、話題になっているから」という視点で現実を創造していっても、自分の魂が曇るだけ。
ありがたい縁が運んできた、自分と対話するための有り難い時間。